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第06話 森へ向かう馬車

ผู้เขียน: あおはな
last update วันที่เผยแพร่: 2026-06-20 22:42:56

 王宮の裏手には、すでに一台の馬車が用意されていた。

 夜会へ向かう貴族たちが使う華やかな馬車とは違う。

 飾り気のない黒塗りの車体で、窓には厚い布がかけられ、外から中の様子は見えないようになっている。

 まるで、人目につかないうちに何かを運び出すための馬車だった。

 セレナは、王宮の裏口に立ったまま、その馬車を見つめた。

 少し離れた場所には、鎧をまとった騎士が一人いる――その顔に見覚えがあった。

 王宮で何度か姿を見かけたことがある。

 王国騎士のローウェン。

 彼はセレナと目が合うと、わずかに身体を強張らせた。

「エヴァレット公爵令嬢」

 呼びかける声が、ほんの少し掠れていた。

「こちらへ」

 セレナは、静かに頷いた。

「はい」

 森へ送られることは、もう決まっている。

 逃げようとは思わなかった。

 逃げたところで、行く場所などない。

 公爵家へは戻れない、王宮にも居場所はない、そして頼れる親族もいない。

 そもそも、逃げるという選択肢を思い浮かべること自体が、セレナには難しかった。

 幼い頃から、言われたことに従うよう育てられてきた。

 ――離れから出るな。

 ――人前に姿を見せるな。

 ――銀髪を隠せ。

 ――余計なことを言うな。

 そうしているうちに、自分で何かを選ぶという感覚が、少しずつ薄れていった。

 ローウェンが馬車の扉を開ける。

 セレナは乗り込むと、内部は狭く、簡素だった。

 向かい合わせに置かれた硬い座席、足元には小さなランタンが一つ。

 公爵家の令嬢を乗せるには、あまりにも質素な馬車だった。

 けれど、セレナは何も言わなかった。

 もう、公爵家の令嬢ではないのだから。

 婚約を破棄され。

 王家からも見放され。

 今夜のうちに、森へ捨てられる。

 ならば、自分にふさわしいのは、この程度の馬車なのだろう――ローウェンも向かい側へ乗り込んだ。

 扉が閉まり、外で御者が鞭を鳴らすと、馬車はゆっくりと動き始めた。

 石畳を踏む車輪の音が、暗い車内へ響く。

 セレナは、膝の上に置いた薬草袋へ手を添えた。

 古びた布の感触が、手のひらへ伝わる。

 王宮を離れても、銀髪を隠す灰色の布はそのままだった。

 外してよいとは、誰からも言われていない。

 森へ向かうだけなのだから、もう隠す必要などないのかもしれない。

 それでも、セレナは布へ触れようとはしなかった。

 ――外すことが、なぜか怖かった。

 それは長い間、身につけてきたものだった。

 不吉な髪を隠すため。

 人を怖がらせないため。

 家族へ恥をかかせないため。

 その布を外したら、自分が何者なのか分からなくなってしまいそうだった。

 しばらくの間、誰も口を開かなかった。

 馬車は、王都の中を進んでいく。

 窓を覆う布の隙間から、わずかに光が差し込んでいた。

 夜会帰りの馬車、酒場の灯りと、通りを歩く人々の声。

 王都は、まだ眠っていない。

 セレナが森へ送られることなど、誰も知らないのだろう。

 あるいは、明日になれば噂が広がるのかもしれない。

 銀髪の娘が、王国を救うために森へ送られた。

 立派な犠牲だった。

 尊い役目だった。

 そんな風に語られるのだろうか。

「申し訳ありません」

 不意に、ローウェンが口を開いた。

 セレナは顔を上げた。

 向かいに座る騎士は、視線を伏せている。

 膝の上で握られた拳には、強く力が込められていた。

「何が、でしょうか」

 セレナが尋ねると、ローウェンはすぐには答えなかった。

「……このような役目を……その、私が、お引き受けすることになったことです」

 セレナは、少し考えた。

 ローウェンは、王太子から命じられただけなのだろう。

 彼が望んで、セレナを森へ連れていくわけではない。

 それなら、責める理由はなかった。

「謝らないでください」

 セレナは静かに言った。

「命令に逆らえないことは、分かっています」

 ローウェンが、ゆっくりと顔を上げる。

 緑色の瞳には、驚きが浮かんでいた。

「ですが……」

「騎士である以上、殿下のご命令には従わなくてはならないのでしょう?」

 セレナは、わずかに微笑んだ。

「どうか、ご自分を責めないでください」

 ローウェンは、何も言えなくなったようだった。

 唇を開きかけ、けれど、言葉にできないまま閉じる。

 やがて、深く俯いた。

 馬車は、王都の門を抜けた。

 石畳の音が遠ざかり、車輪の揺れが大きくなる。

 整えられた道ではない。

 森へ続く街道だろう。

 窓の向こうから聞こえていた人々の声も、いつの間にか消えていた。

 聞こえるのは、馬の蹄の音と、車輪が土を踏む音だけ――セレナは目を閉じた。

 暗い車内に揺られていると、離れで暮らしていた頃のことを思い出す。

 公爵家の屋敷の端。

 庭園からも遠く離れた、小さな建物。

 冬は冷え込み、夏は湿気がこもった。

 部屋は二つしかなかった。

 狭い寝室と、古い机が置かれた居間。

 窓から見えるのは、生い茂った木々と、ほとんど使われない裏道だけだった。

 家族のいる本邸へ行くことは許されなかった。

 食事は、一日二度、使用人が無言で置いていくことが多かった。

 それでも、食べられるだけありがたいと思っていた。

 ときどき、食事が届かない日もあったからだ。

 忘れられていたのか。

 誰かが意図的に減らしたのか。

 セレナには分からない。

 尋ねる相手もいなかった。

 ただ、机の引き出しに残しておいた乾いたパンを、少しずつ食べて凌いだ。

 家族と同じ食卓についた記憶は、一度もない。

 遠くから、本邸の明かりを見たことはある。

 窓の向こうで、家族が笑っていた。

 暖かな灯りの中で、三人は同じ卓を囲んでいた。

 セレナは離れの窓辺に立ち、その光景を見ていた。

 家族というものが何なのか、よく分からなかった。

 同じ屋敷に住んでいる。

 同じ家名を持っている。

 けれど、自分だけは、そこに入ることができない。

 だから、いつの間にか見ないようにした。

 羨ましいと思えば、苦しくなるだけだった。

 そんな離れへ、クララは何度も足を運んでくれた。

「お嬢様、今日は少しだけ温かいですよ」

 そう言って、まだ湯気の立つスープを運んでくれた。

「古い本を見つけました。森の植物について書かれているようです」

 誰にも知られないように、本を置いていってくれた。

 薬草。

 森に棲む動物。

 毒を持つ植物。

 水場の見つけ方。

 セレナは、夢中になって読んだ。

 離れから出られない自分にとって、本だけが外の世界へつながる扉だった。

 クララが渡してくれた薬草袋も、その頃から大切に持っている。

 まだ幼かったセレナへ、クララは一つずつ薬草を見せてくれた。

「これは傷に効きます」

「こちらは熱を下げます」

「これは毒を弱めることもありますが、扱いには気をつけてください」

 セレナは、何度も繰り返して覚えた。

 いつ使う機会があるのか、その頃は分からなかった。

 けれど、覚えておけばいつか役に立つ。

 クララがそう言ったから。

 馬車が大きく揺れた。

 セレナは目を開ける。

 ランタンの火が、頼りなく揺れていた。

 窓の外は、いつの間にか完全な闇に包まれている――王都の灯りは、もう見えない。

 街道沿いにあったはずの民家も、とうに途切れていた。

 聞こえるのは、風が木々を揺らす音だけ。

 その音も、次第に大きくなっている。

 森が近いのだろう――ローウェンは、何度も窓の外へ目を向けていた。

 顔色が悪い。腰に差した剣へ手を添え、何かを警戒している。

「森へ入るのですか」

 セレナが尋ねると、ローウェンは一瞬、言葉に詰まった。

「……森の入口までです」

「そうですか」

「その先は、馬車では進めません」

 それ以上は、何も言わなかった。

 言葉にしなくても分かる。

 森の入口で降ろされる。

 そこからは、一人で歩く。

 騎士の同行はない。

 帰るための馬車もない。

 セレナは、膝の上の薬草袋を握りしめた。

 怖くないわけではなかった。

 胸の奥は、少しずつ冷たくなっている。

 けれど、不思議と泣くことはできなかった。

 涙を流すには、あまりにも長いあいだ我慢しすぎたのかもしれない。

 やがて、馬車の速度が落ちた。

 馬が怯えるように嘶く。

 御者がなだめる声が聞こえる。

 その直後、遠くから、低い遠吠えが響いた。

 一つではない。

 暗い森の奥から、いくつもの声が重なって聞こえる。

 魔物――そう理解した瞬間、ローウェンの顔が強張った。

 馬車が止まる。

 静寂の中で、風が木々を揺らす音だけが聞こえた。

 ローウェンは立ち上がり、扉へ手をかけた。

 けれど、すぐには開けず、指先が、わずかに震えている。

 それでも彼は息を整え、ゆっくりと扉を押し開いた。

 冷たい夜気が、車内へ流れ込む。

 外には、闇に沈んだ森が広がっていた。

「……ここから先へは、馬車では進めません」

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